没食子インク(古典インク)の性質 ~ ペン先の腐食について

「没食子インク」というものをご存知でしょうか? 筆者はこのブログを始めるまで「没食子」という単語自体知りませんでした。見慣れない単語ですが、「もっしょくし」あるいは「ぼっしょくし」と読みます。

没食子インクとは

没食子とは特定の植物にできる瘤(こぶ)のことで、この瘤にはポリフェノールの一種「タンニン」という成分が多量に含まれています。瘤を採取して長時間水に漬けるとタンニンから「没食子酸」という成分が抽出できます。そこに鉄分と混ぜ合わせて、没食子酸と鉄分を化学的に結合させたのち、さらに適度な粘性を与えるためアラビアゴムなどの添加物をを含有させた液体が没食子インクと呼ばれるようです。
この状態での液体自体の色は瘤や鉄分の種類により様々ですが、液体が紙にしみこむと鉄分が空気中の酸素と結合し酸化しはじめ、どんどん黒色に変色していきます。黒い成分は水に溶けにくく、この化学変化を利用した黒インク、というわけです。
……ここまで調べながら書くのに3時間以上かかりました……

要は没食子が原料だから没食子インク、ということです。たぶん。
原料が植物由来であることからも想像できるとおりかなり古くからあるインクとされ、20世紀に入り代替インクが普及するまで、長きに渡り世界中で一般筆記用のインクとして使用された代物なのだそうです。

古典といえど

現代の一般的な染料インクが広まるとともに衰退の一途をたどった没食子インクですが、全く無くなったわけではありません。少数ですが世界のメーカーが研究、製造、そして発売を続けています。近年ではプラチナ万年筆が、カラフルながらもあえて没食子インクの特性を持つインクシリーズ「クラシックインク」という製品を発売しました。
なお、前述した製法は原始的なものであり、現代の没食子インクはもちろん現代の筆記具に合うように改良されて製造されています。同じ染料インクではありますが、一般的な染料インクと区別して「古典インク」という名で呼ばれることのほうが、現在では多いかもしれません。

酸性のインク

この古典インクは色味の変化のほかに、「耐水性」「保存性」など、一般的な染料インクにはない特徴を有していて、インターネットで調べるだけでも本当にたくさんの方が取り上げているので話題に尽きないのですが、今回このブログでテーマとしたいのが「pHが小さい」つまり「酸性」のインクである、という点です。
色味の変化については別記事をご覧ください。

万年筆が発明された当初、ペン先はスチール製でいわゆる「鉄ペン」でした。鉄が酸化して錆びることはよく知られているところだと思いますが、当時の万年筆でも同様のことが起こっていて、使用しているうちにペン先がインクにより酸化されて使い物にならなくなるということがあったのだそうです。それを解決するために耐薬品性の高いゴールド製のペン先、いわゆる「金ペン」が開発されたというエピソードがあります。

では鉄ペンは金ペンに淘汰されてしまったのかというとそんなことはなく、現代でも比較的安価で実用的な万年筆を中心にスチールのペン先が使用されています。鉄からステンレスのような錆びにくい合金に進化し、はたまたチタン製やプラスチック製なんてものまで開発されて、むしろゴールド以外の素材を使った万年筆のほうが隆盛している気さえします。

やっぱりそうなのかな

先日、都内の某店でたまたま古典インクを見つけたとき、そばにこんなポップが置かれていました。

「没食子インクです。鉄ペンには使用しないでください」
「このインクは酸性です。鉄ペンにはおすすめしません」

こんな注意書きまでしてあるのは初めて見たのでずっと印象に残っていました。そのときは「さもありなん」程度にしか思わなかったのですが、後日とある外国産古典インクをインターネット通販で購入できないか探していたところ、「古典インクは鉄ペンでも使えるよ」という情報をちらほら見かけました。そして、やっぱりと言いましょうか、真逆の意見もあるのです。

まったくの余談ですが、こういった事象に当たるたび、万年筆って長年築き上げられてきたいわば「枯れた技術」なんじゃないの? という疑問が湧きます。ボールペンの普及により一般的な筆記具の一線から退いたとはいえ、発明から100年以上経った今でも万年筆のあれやこれやについていろんな方々からいろんな意見が出されています。単にインターネットがそれを表面化しただけかもしれませんが、これだけ見解がぶれるのもある種のカルチャーなのかなということで落ちつくことにします。

いっぱいある「鉄ペン」

話題を戻します。
酸性のインクは鉄ペンのペン先を腐食させるのか否か。

現在一般的に「鉄ペン」と呼ばれるのはステンレス製のペン先を持つものも含まれるようなのですが、メーカーによってはペン先の素材を「スチール」「ステンレス」「特殊合金」などと様々に表記していて、これまた何が違うのかよくわかりません。
スチールといっても純粋な鉄ではないでしょうから、正確には鉄と何かの合金ということなのでしょうし、ステンレスといっても膨大な種類があります。特殊合金にいたっては鉄でもステンレスでもない何か、ということしかわかりません。これらについても情報がなくてさっぱりなので、とりあえず金ではない金属製のペン先をもつ万年筆のことを「鉄ペン」とひとくくりにすることにします。ただし、チタン製については除くものとします。
あとはインクですが、酸性のインクといってもどのメーカーのものでもすべて同一の酸性度ではないはずです。どうせなら、今手に入るもののなかで一番酸度が強いものを使ってみたい。けれども、それを知るすべがない。仕方がない、これも適当なものを使うことにして……

あとは、自分で試してみるのみ……

3本被験者のみなさん

観察してみましょう

というわけで、実際にペン先に変化があるのか確認すべく、日本の主要メーカー3社の比較的手に入りやすい鉄ペンのペン先を古典インクに浸してみて、観察してみることにしました。
ペン先にメッキを施してあるものも存在しますが、とりあえず今回はメッキされていないものをチョイス。以下の3つとなりました。

  • パイロット カクノ EF (ペン先:特殊合金)
  • セーラー ハイエースネオ F (ペン先:ステンレス)
  • プラチナ プレジール F (ペン先:ステンレス)

使用した古典インクは最近日本に上陸したポーランドのメーカー「KWZ Ink」の「IGブルーブラック」です。なぜこのインクなのかといいますと、たまたま入手できたというのもありますが、筆者が愛読している雑誌「趣味の文具箱」でKWZ inkが紹介されており、そのなかに「最強のIGブルーブラック」の文字があったからなのです。ちなみにIGブルーブラックの「IG」とは没食子インクのこと。「最強? 酸度が最強ってことかな?」と安直な考えのもと選んでみたのです。要するに、特別意味はありません。

漬けてみます漬けてみます

まずは一週間

ペン先にインクをつけてからキャップを閉めてそのまま机の上に転がしておきます。一日おきにキャップを開けて、様子を確認したら閉めてまた放置。この繰り返しで、まずは1週間経過を観察してみました。
その結果がこちらになります。

パイロット 一週間パイロット カクノ

セーラー 一週間セーラー ハイエースネオ

プラチナ 一週間プラチナ プレジール

それぞれの写真上が新品の状態、写真下がインクを付けて一週間経過した状態ですが、酸化したような変化はありませんね……
目に見える変化がないためちょっと拍子抜け。そう簡単には錆びてはくれないようです。いや、もちろんそのほうが素晴らしいのですが。

それでは、さらに一月後はどうなっているでしょうか。
その間はキャップも開けずに一か月間放置します。万年筆にインクを入れたはいいけど一切出番がなくてペンケースの中で眠っている、という想定です。インク自体の酸度がどうなっているのかわかりませんが、とりあえずインクをつけ直すことはせずに放っておくことにします。

さて、どうなったかといいますと、これも目視では変化なし。

なかなかしぶといな。いやいや、もちろん錆びないほうが素晴らしいんですよ?

せっかくなので、もう一月延長してみましょう。万年筆にインクを入れた状態でまる二か月間全く使用しないというのは、あまり考えられる状況ではありませんが、無いわけではありません。物は試しです。やってみましょう!

二か月が経過

そして二か月経過し、洗浄したものが下の画像となります。

パイロット 2か月経過パイロット カクノ

セーラー 2か月経過セーラー ハイエースネオ

プラチナ 2か月経過プラチナ プレジール

うーん、ぱっと見は問題なさそう。
洗浄は人肌程度のぬるま湯とスポイトを使って行いました。ちなみに、この時点ですでにいずれの筆も筆記は問題なくできました。

セーラーは不透明なので内部がわかりませんが、プラチナはほぼ落ちていることがわかります。パイロットは、首軸に刺さっている部分にインクが残っています。これはこの状態ではなかなか取り除くことができませんでした。

セーラーのペン先にはインクの青みが、シミのように比較的はっきりと残っています。青い成分は染料のはずなので錆ではなさそうですが……念のためマイクロスコープで拡大してみることにします。

パイロット ペン先拡大-1
パイロット ペン先拡大-2
パイロット ペン先拡大-3パイロット カクノ

セーラー ペン先拡大-1
セーラー ペン先拡大-2
セーラー ペン先拡大-3
セーラー ペン先拡大-4セーラー ハイエースネオ

プラチナ ペン先拡大-1
プラチナ ペン先拡大-2
プラチナ ペン先拡大-3プラチナ プレジール

拡大してみると、いずれのペン先にも青いシミが見受けられますね。

ちなみにニブの裏側はこんな感じ。

パイロット ニブ裏側パイロット カクノ

セーラー ニブ裏側セーラー ハイエースネオ

プラチナ ニブ裏側プラチナ プレジール

アスコルビン酸洗浄

このシミは、ぬるま湯ではなかなか落ちてくれませんでした。そこで、KWZ Inkのページでも推奨されている洗浄方法であるアスコルビン酸(ビタミンC)を溶かした水で、先ほどと同様に洗浄したものが下の写真になります。
ちなみに、使用したアスコルビン酸は薬局で適当に購入したビタミンCのカプセルタイプのサプリメントです。サラダボールに5粒程度、カプセルから粉末を取り出して水に溶かしています。

ビタミンCカプセルを分解したところ。

水で溶きます。

パイロット 洗浄後-6
パイロット 洗浄後-7パイロット カクノ

 

セーラー 洗浄後-8
セーラー 洗浄後-9
セーラー 洗浄後-10セーラー ハイエースネオ

プラチナ 洗浄後-6
プラチナ 洗浄後-7プラチナ プレジール

はい。綺麗さっぱり、新品同様になりました。やっぱり錆びてはいませんでした。筆記も問題なく可能でした。アスコルビン酸による洗浄能力、すごいですね。

予想はしていましたが

この結果より、少なくとも日本のメーカーが現行発売している鉄ペンに関しては、市販の古典インクが使用可能、ということが言えるのではないでしょうか。
また、万年筆の内部に残った古典インクの完全な洗浄は、アスコルビン酸を溶かした水を使用するのが確実だということ。水やぬるま湯だけだと、数回のインクの補充は問題なくても、首軸の内部に徐々に古いインクが溜まっていく可能性があります。これは故障の原因になりかねませんので、注意が必要ですね。

さらにいうと、今回は使用しなかった、ペン先にめっき処理がされているような場合、めっきの下地が侵されて剥がれる可能性はあります。また、金属製の首軸や、キャップリングやクリップなどのペン先以外の金属部分についての影響は判断できません。あくまでもペン先のマテリアルに影響が出ない、ということがわかっただけですので、そこは注意が必要です。
あと、さらに長時間、たとえば年単位で放っておいたらどうなるのかも判りません。しかし、その状況自体があまり現実的ではありませんよね。

古い万年筆

……そう、管理を怠ると、下の写真のようになるかもしれません。

ペリカン120 腐食 -1ニブの裏側です。

ペリカン120 腐食 -2痛々しい……

このショッキングな写真は、フリーマーケットで手に入れたペリカンの1960年代の万年筆「120」のニブです。スチールニブに金メッキが施されているものですが、ご覧の通り腐食してスカスカになっています。
手に入れた当初、キャップを取るとインクで真っ青になったペン先が現れるとともに妙に鉄っぽいにおいがするので、まさかと思いペン先を洗浄してみた結果、このような状態になっていました。ニブが首軸から簡単に取れてしまうほど、地金が痩せて穴が随所に開いてしまっています。洗浄前はインクでベタベタの状態でしたので、かなりの長時間かけて、インクにより腐食されたことはほぼ間違いないでしょう。

付着していたインクが没食子インクであったかどうかはわかりません。しかし、インクをよく洗浄せずそのまま放置していると、筆によってはこうなってしまうかもしれないということを肝に銘じておく必要があります。

楽しい万年筆ライフを……

いずれにしても、先の観察結果より、万年筆を一般的な取り扱いで使用する分には、古典インクだからといってとりわけ神経質にならなくてもよさそうです。身もふたもないことを言えば、メーカーは純正インクを使うことを前提としているところ、あえて別のインクを使用しているわけですから、故障しようが何だろうが完全なる自己責任の世界です。

昨今、万年筆を使うハードルはかなり下がりました。100円から万年筆が手に入る時代です。安価な鉄ペンを大量に購入して、それぞれに別々のインクを入れて悦に浸るのもまた、楽しみ方のひとつでしょう。そんな気軽に扱える万年筆に、没食子インクを入れるという選択肢が増えるのは、喜ばしいことなのではないでしょうか。

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